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日々の繰り言を綴る日記

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2011年3月14日(月)

いまだ両親の安否はつかめず、朝から胃液の味が口の中に広がっていた。
幸いだったのは、ダンナの会社が自宅待機の対応となり、
一緒にいてくれることになったこと。
娘たちを学校に送り出し、ふたたびパソコンとテレビで安否情報を探す。

「少し寝れば」

ダンナに言われた。ちゃんと眠ってんのかと。
いちおうベッドに入ってはいるし、眠ってもいるけど、
とにかくずっと夢を見ているような状態で、
起きても目眩と胃痛、みたいな状態になっていた。

安否が心配というのに加えて
直接被害に遭遇している人にくらべたら
贅沢な環境で布団に入れているというのに、
という自責の念も含めて、胃も痛い。

「いいから、オレが調べておくから、とりあえず少し寝ろ」

言われて、おとなしくベッドに入る、朝の9時ごろ。
でも、やっぱり考えてしまうわけです。
航空写真で、町は壊滅してるも、実家のある地区は家の倒壊流失はなく、
少なくともその場で建ち続けていることはわかっている。
とすれば、地震・津波のとき家にいたのなら、津波警報を聞いて
高台に逃げてくれていれば、助かっている筈。

だけど、そのときたまたま町の方に買い物とか行ってたら?
地震被害で津波の防災放送が鳴らなかったら?
もし、姪の学校に迎えに行ってて津波に巻き込まれていたら?
姪が下校途中で大人が傍にいてあげられていなかったら?
もう、ありとあらゆる想像妄想が渦巻いて、たまらんかった。

それでもうとうとして、少し眠ったところだった。

「おい!!!!連絡きたぞ!!生きてたぞ!!!」
「え?」
「電話がきた!おとうさんもおかあさんも無事!」

大槌の本家の従兄が遠野まで買い出しに出てきて
携帯電話(そこまで来ると電波が通じる)か衛星電話かで
埼玉にいる叔母さんに連絡をくれて、
そこから神奈川にいる弟に連絡が行き、
私のところまで連絡が入ったというわけだった。

父も母も無事。

もうね、もうね。
声をあげて泣きましたよ。
あんな子どもみたいに泣いたのは久しぶりです、もーーー。

住んでいる地域は高齢者の多いところ。
しかも、父は自治会長なんかやってるから、
助かっていれば避難所の運営の手伝いをやっているにちがいない、
そう思ってました。
思ってましたら、やっぱり案の定、想像通り、
避難所の運営側でがんばってるらしい。
もー、父らしいし、母らしい。
被災しなかった親戚の家に身を寄せることもできるのに、
避難所で仕事してると聞いて、なんだか安心して笑っちゃいました。
それでこそ、父だw

朝はダンナの作ってくれた素うどんする喉を通らなかったのに、
単純な脳細胞で生成されてる私は、うどん完食しましたですよ。

ここまでが、両親の安否が確認できるまでのお話。

姪は翌日の電話で、無事に姉夫婦と一緒にいることがわかったし、
大槌に住む父方の親戚一同、誰一人犠牲になることなく
奇跡的に助かっていたことがわかりました。
ただ、本家は津波の被害後、火災に巻き込まれ、跡形もない状態のようです。
どなたかが撮影した町の写真で確認しました。
伯母さんの家も親戚の家もいくつか浸水、火災などに巻き込まれたようです。
ただ、被災しなかった家もあり親戚で助け合って避難しているみたいです。

母方の親戚は、陸前高田市や気仙沼、仙台などにいますが、
こちらも津波で家や漁船や店(海鮮料理)が流失するも
誰一人犠牲にならず、生き延びてくれたそうです。
たいへんありがたく、ありがたく、ただただ感謝するしかありません。
母方の親戚とは子どもの頃に盆や正月に遊んだきりで、
まったく連絡先を私は承知していなかったのですが、
(この時点では母に自由に連絡をとることもままならず)
小さな糸から仙台の従弟に連絡をとることができ、
そこから情報をもらったのでした。
それから姉を通じて、母にそのことを伝えました。

津波の日の状況を詳しくきけたのは、つい先日のことです。
携帯電話の電波が回復しても長電話をすることもはばかられたし、
そんなに根ほり葉ほり訊いていいものかという躊躇もあったし。

地震のあったとき、父も母も自宅にいたそうです。
あれ、大きいなと思って家具を押さえてると、棚の上の植木が落ちて、
もうっ!、なんて思ってたらしい。
つまり、地震は確かに大きかったけれど、それだけでは大きな被害は無かったということ。
釜石で仕事をしている姉夫婦に代わり、母はそれから歩いて小学校に姪を迎えに行ったらしい。
近所の人と、大津波らしいね、などと話しながら(防災放送なのかテレビの情報かは不明)
途中、同級生の子の母と出会い、小走りで学校に行くと、
子どもたちは高台に避難しました、とのこと。
高台とは、裏山にある中央公民館。
私も子どもの頃なんども登ったけれど、結構な坂道なんだこれが。
うわ、これを登るのか、と母はうんざりしたそうだが(笑)、それを登って、
公民館の駐車場にいた小学生の集団から、先生に挨拶して姪をピックアップ。
さて、帰るか、と坂道を下っていたら、下から町民が血相変えて登ってきたそうだ。
津波がきたーーって。
見れば、坂道の下、警察の派出所の向こうにたちのぼる土埃が見え、
黒い水が押し寄せてる状態だったと。
だめだ、引き返すぞって、姪の手を握って、必死で再び坂道を登って助かったのらしい。
そこから二日間、公民館に避難してて、その間、目の前まで山火事が迫っていたらしく、
かなり壮絶だったようだけど、全国から来てくれた消防や自衛隊のおかげで
火は公民館に届くことなく鎮火。
私もテレビで、関西方面の消防車が多数大槌の道に待機してくれていたのを見て
ありがたくて、頼もしくて涙出ました。
母は従兄と一緒にいったん被災しなかった親戚の家に行き、姪をあずけて、
自分は父のいる避難所に行ったとのこと。

父は、地震後母を送り出してから、避難してくる人のために集会所に行って準備をしつつ、
裏山から川を見たら、土手の向こうを流された家が川をさかのぼってくるのが見えたそう。
そうこうしているうちに、水かさが増して土手を超えて水が住宅地に入ってきた。
こりゃ、本物がきたな、と思ったらしい。
父もチリ地震津波などを経験しているわけだが、そのときだって、ここまで水は入らなかったらしいから。
この地域は、結局1階は天井付近まで浸水の大規模半壊になった。

で、裏山の高台になっている個人宅にいったん地域の人たちと一緒に避難。
そのまま父は、裏山を登り(かなり急な山だと思う。崖とかあるし)、
山の頂上付近にある防災用の道を使って、母たちのいる中央公民館まで行って、
母と姪の無事を確認すると、また山を降りて、地域の人がいる集会所に戻ったらしい。
おそるべし、だ。まったく。
で、一晩は集会所の2階で過ごし、翌朝、川の上流、津波の届かなかった場所にある
町の施設に避難し、今に至る、というわけでした。

家も庭も泥だらけ、という状態になったけれど、
連日、がんばって掃除し、ダメになった家財を捨て、
いまはだいぶ片付いてきているみたい。

姉夫婦はダンナさんの親戚の家で避難生活しています。
かわいいわんこを3匹かっていましたが、
1匹、果敢に生き延びてくれました。
2匹のわんこは一緒に天国に行ってしまいました。
姉はメールや電話ではいつでも元気にしてはいますが、
そうとう悲しんていることと思います。

遠い場所にいて、うかつに帰ることもできず、
凹んでいる私を逆に励ます勢いの父母。

もうな、こうなったからには腹をくくってやり直すしかないんだから。
ああ、来なくていい、来なくていい。
だれ、寝っとこもないし、捨てた家財道具が積まれてて
車止めっとこもないから。
いい、そっちでおめさんはがんばれ。
夏休みには帰れるようにしとっから。

役立たずの娘であり妹であり、すまん。まじで。
連日夢を見るよ。帰る夢。

毎日、自分にできることは何か考えてます。
これからもずっと考えます。

それから、ツィッターで、私を励ましてくれたお友だちのみなさん。
心配をおかけする言葉ばかりを投下する私を励ましてくれ、
一緒に悲しんでくれ、喜んでくれ、どんなに心強かったかしれません。
感謝しています。
本当にありがとうございました。
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2011年3月12日(土)

昨夜からニュースとネットで情報をむさぼるように見てた。

東北地方太平洋沿岸に巨大津波。

どの時点かは今となってはあやふやだけど、
少なくとも12日の朝の時点で、巨大津波が襲ったことはわかってた。

最初に見た映像は、石巻か気仙か、
とにかく、津波が去った後の町並み。
道は泥だらけ。瓦礫と、大きな根っこを見せた倒木。
大槌とは離れた町の映像だった。
ここは大変だったんだね。
最初はそう思った。

でも、だんだんとわかってくる。
たとえひどい状況であれ、テレビカメラが入れるところはまだマシだから。
テレビカメラの入れない町こそ、さらに酷いことになっている可能性がある。

大槌町は、県や国が町役場と連絡すらとれないでいるらしいと知る。

私自身も実家とは連絡とれず。姉とも連絡とれず。
回線が混雑いているからなのか、それとも全く別な理由なのか。

確信的な情報を得られなく、悶々としたまま朝を迎え、
そして、ニュースを見続けてた。
ニュースは津波で多数の死者が出ていることを伝えている。

とんでもないことになっているのかもしれない。
とんでもないこと。
それを具体的に想像するのは怖かった。

もやもやとした重い塊が胸にある。

大津波は平日の午後。
会社はとっくに退職し、地域の自治会長をしている父は家にいただろうか。
母も一緒だっただろうか。
それとも、小学生の姪を迎えに学校にいっただろうか。
それとも、ふたりともより海に近い町方に用事で行っていただろうか。
姉夫婦は釜石市の会社に行ってたのだろうか。
大槌に帰れてたのだろうか。

午前何時ごろだっただろう。
とつぜん、家の電話が鳴った。
飛びつくように出る。

「あ、咲蘭(ほんとは本名)?」

姉の声だった。
切迫するでもなく、とにかく、いつもの姉の声。

「おねぇちゃぁぁあああんっ!生きてたぁぁぁあああ!!!!」

それが私の第一声。

「うん。いまねNTTから電話借りてかけてんの」
「うん!」

たぶん、衛星電話を借りていたのではないと思われる。

「会社までは津波が来なかったから、私もダンナも無事」
「よかったぁぁああ」
「でね、お父さんからあんたのとこに電話がきたら、私らも無事だって伝えてちょーだい」
「わかった!必ず伝える!お父さんたちには会ってないの?」
「だって、会社に来てて、地震と津波で家に帰れてないからさー」
「そうか」
「じゃあね」
「うん!気をつけてね!必ず伝えるから!」

なんとも間抜けな会話のような気もするが、
とにかく姉の声を聞いた私の手は震えてた。
ぶるぶる震えて、しばらくその場から動けなかった。
それから、見守ってたダンナと娘たちに、姉と義兄が無事なことを伝える。

これはあとから知ったことだけど、姉たちの会社は海から
離れた場所にあるため津波は到達せず、沿岸に津波が来たことは知りつつも、
まだ、それほどの非常事態を把握していなかったらしい。
逆に私の方がテレビで情報を得ている分、悲痛な声だったのかもしれない。

その後、姉から携帯にメールが届いた。
海側は津波の被害で通れないから、今から遠野方面から
山越えして大槌に帰る、という内容。
姉たちも大槌に娘を置いているけど、連絡がとれず
ずいぶん心配はしていただろうと思う。
そのメールを最後に、姉たちとも数日間連絡が途絶えた。

これが12日(土)の午前中。
私にできることと言えば、テレビ、ネットから大槌の情報や
避難者名簿に家族の名前が無いか探すことぐらいだった。
ダンナと私とそれぞれのパソコンでひたすら検索しまくった。

ヘリコプターからの映像で大槌の町が映ったのは、
12日の何時頃だっただろう。
リアス式海岸特有の海までせり出した山々。
その合間の平地に町。
その山から幾つもの煙があがり、町は瓦礫と泥だけになっていた。
津波が町を押し流し、プロパンガスが燃え、ガソリンスタンドに引火し、
流された家々を焼き、山に火が移り、町中が燃えたらしい。

夜になっても、よく眠れない。
家族は寝かせて、自分ひとりパソコンにかじりつく。

13日(日)午後。
初めて、テレビカメラが大槌の町に入った。
日テレ(テレビ岩手)かFNN(めんこいテレビ)だったと思う。
でもね。
一瞬どこの映像かわからないの。
知ってる見慣れた町なのに、あるはずの建物が一切無くて、
瓦礫の山だけで、どこだかすぐにはわからない。

「……あれ、もしかして、これ古廟橋じゃない?」

テレビに向かって呟いた。
映し出された、ぎりぎり津波の被害を受けなかった橋。
手前まで燃えたがれきや流された家があるけれど、
その向こうにはショッピングセンターの看板が見える。

「………………うっそぉぉぉ……」

言葉が無かった。
2歳から高校を卒業するまで住んでいた町が、
いつでも帰省すれば、変わらぬ姿でいてくれた町が、
まるで空襲で爆撃でもされてしまったかのような姿になっていた。
テレビの向こうに映し出された変わり果てた町の風景。
ただの瓦礫ではなく、燃えて錆びた鉄柱。
すすけた鉄筋コンクリートの建物。(←よく知ってるおじさんの家だ)
つぶれた家。(←姉の同級生が住んでいた家)
黒こげの道の向こうには燃えてあとかたも無い父方の本家。
きれいな流れだった川に無残な姿の車。
たぶん一生忘れられない。
現実感が無くて、全身から力が抜けて、涙がだーだーと流れた。

FNNの現地レポーターが、橋から茫然と町を眺めている
二人のおばさんに声を掛けた。
家はどうだったのですか、という問いに、私の実家が流されてしまって、と
そのおばさんが答えた。

「あっ!ぁああっ!!○さんだっ!」

誰あろう、父の姉、私の伯母さんだった。
わりと小奇麗な格好に、毛糸の帽子までかぶっている。
汚れた風でもなく、今から町に買い物にでも出かけそうな雰囲気で。
伯母さんが生きてる。助かってる。
しかも、こんな小奇麗な格好で。
このことがどれだけ私を励ましてくれたかわからない。
伯母さんの家の位置から考えて、伯母さんちに津波が到達してなければ、
実家だって津波が来ているわけがない!と思った。

あとからわかったことだけど。
伯母さんちも、私の実家も、津波は到達してた。
ただ家を押し流すほどではなく、1階の1m以上の床上浸水。
大規模半壊というやつだ。

とにかく、伯母さんの姿に勇気をもらって、
再びネット情報をあさりまくった。

父と母と姪の安否。
大槌に入っただろう姉たちの動向。
大槌にたくさん住んでいる父方の親戚いとこたちの安否。
陸前高田に住んでいる母方の親戚の安否。

13日(日)夜。
地震と津波から2日経過していたけれど、
まだ分からないことだらけだった。

友だちのブログや姉のブログ(←被災地まっただ中の様子なので壮絶)で、震災当日の様子を備忘録として綴っているのを読んで、たいした記録ではないが、自分も備忘録としてやっぱり記録しておくことにしました。

2011年3月11日(金)午後。
いつもどおり会社で仕事中。
お隣のチームの人にこっちの仕事を手伝ってもらうにあたって、パソコンの設定見てあげなくちゃいけなくて、お隣の島の席でメールの設定いじくってました。

と。地震。
お、地震だ。地震になっても、いつも慌てず様子を見る癖があるので、まわりと見渡しながら、ま、大丈夫だろ、と思ってました。
でも、長い。そして大きい。長い。
西日本のお客様の電話を取ってた人は、「すみません!地震なので、掛け直します!」なとど言って電話を切ってみたり。
壁際のキャビネが倒れそう、とか言いながら押さえる女子社員(←倒れたら危ないっつー)
ちょっと、机の下に隠れちゃう?とか、支給されてるヘルメットかぶる社員もちらほら。
とたんに大きな悲鳴。
フロアの端の天井板が崩れ落ちました。
まじか。
自分の席に戻ろうと立ち上がって歩くけれど、あまりに揺れるので戻りきれず、途中の上司の机に頭を入れて避難。

ようやく揺れがおさまって、自分の席に戻って、すごかったねーなどと興奮気味に語ってると、隣の席の子がパソコンで地震情報を開いてた。
げ。でかいね。東北の方が大きかったみたいよ。と。
でも、この時点では、まだ、実家のことを思いやるより、自分の娘たちの方を心配してた。

天井板が落ちた個所があるからか、いったん建物から退去するように、との命令がでて、このまま帰っちゃうか、などと冗談を言いながら、ロッカーに戻って荷物やダウンジャケットを持って(帰り支度だ)みんなで外にでた。
会社の敷地の隣には大きめの公園広場があるから、とりあえず社員総勢でそこに行く。

この時点で携帯電話は全く使えずダンナに連絡できず。ソフトバンクめ。
ドコモの子は携帯電話で会話もできてたし、テレビも見れてた。
どうやらフジテレビのカメラがお台場で煙が上がってる映像を映しているらしく、これはちょっと大事もになるかも、と思う。

で、また揺れ。
でかいでかいよ。近くの鉄塔がゆらゆら揺れてる。
あれた倒れたら、やばいってーーー。などと言う。

でも、まだ暢気。
電車止まったらどうしよーー。などと、おしゃべりをする余裕ある。
なにしろその日、めずらしく細くて高いヒールのブーツを履いており、これで徒歩で帰るのは無理。
会社の子に「そこのホームセンターでスニーカー買ってかえりなよ」とまだ冗談の域で会話。
会社の近所に住んでる人で、保育園に通う子がいる人が子どもが心配なので帰ります、と徒歩で帰宅。
会社からもお子さんいる人などで帰宅希望の人は、就業時間帯ですが帰宅してOKですということになる。

えー、私も帰りたい。
建物の危険性についてとりあえず大丈夫ってことになり、いったんフロアに戻り、パソコンのログアウト、書類をしまう、など本格的に帰り支度をする。
このとき、会社の固定電話からダンナのiPhoneに電話するも繋がらず。
子どもたちは学校にいるはず、とまだ思ってる。

電車止まってるみたいなんだけど、どうする?と、訊かれるも、会社に留まっていたら家に帰れないので、とりあえず駅に行きます、と一人で駅に向かう。
で、駅は改札を閉鎖しており、入れない状態。
げーーー。
タクシー乗り場は素晴らしいほどの列ができている。
さて、どうするべ。

そこに同じ方面に帰る会社の人の集団に出会い、まずはタクシーに並ぼうということに。
でもしばらく待っていても、まったくタクシーが来ず。
みんなお子さんがいるお母さんたちで、早く帰りたいよね、と言い合って、一歩でも家に近づこうか、ということで国道沿いの道を歩き出した。
歩きながら、通り過ぎるタクシーを見るけれど、みんな客を乗せている。
こりゃー何時間かかるかわからんし、ヒールのブーツだけど、歩かなくちゃダメかもぉと悲しくなってきたころ、一台の空車のタクシー発見。正確には「回送」となっていたのだけど、信号待ちになったところに手を挙げて、無理やり窓を開けてもらう。もう必死。

「乗せてもらえませんか?」
「あー……近くですか?都内方面なら……」
「○○駅(都内の最寄り駅)まで!」
「ああ、それなら」

代々木方面から来てるタクシーだったみたいで、そっちに帰りたかったのでしょう。
希望の行き先が途中の駅だったため、運よく乗せてもらう。
途中下車する会社の人と合わせて3人で相乗り。
よかったねー。支払いどうする?現金ある?などと暢気な会話をしながら、タクシーは家方面に向かってすすみます。まじで、あのときはタクシーさまさまだった。

思うに、このとき、実家の町は大きな津波が何度も押し寄せ、家を学校を駅を役場を風景そのものを破壊していたんだなと。なにも知らず、ただ、娘たちのいる場所に行かなくちゃ、とこのときは思ってた。

ときおり渋滞しながらも、わりとすいすいとタクシーは進んでくれる。
途中、ダンナのメールを受信。
ダンナが会社の固定電話から家の固定電話に地震の後に電話したら、娘2号(小4)が電話に出たと。

はぁぁ!?学校にいる時間だったんじゃないの!?

心から驚いた。
絶対、学校で保護してくれてると思ってたから。
耐震基準を満たした新築の学校にいると思ってたから。

家にひとりでいるなんて。
電話の向こうで、パパの声を聞いたら、ちょっと泣いてしまったらしい。
まじかーーー!!

超焦った。
後からわかったことだけど、この日、学校は高学年の子の委員会活動のため、4年生は6時間目の授業が無く、いつもより早く帰宅だったんだと。
いつも自転車通勤のダンナは、その日に限って飲み会の予定があったので、電車で行ってた。だから、歩いて帰ってる途中とのことだった。

ようやく到着した最寄りの駅でタクシーを降りて、止めてあった自転車に乗り換えて、家のマンションまで暴走しました。でも、町はわりと平穏で、暴走しながら、これならダイジョブだろうと思ってもいた。

で、マンションについて、エントランスから入るのはもどかしいので、庭(マンション1階で、自分ちの駐車場が小さな庭の前にあって、そこから入れる)に鍵を開けて入ると、逃走用にリビングの窓を少し開けてあって、がらりとそれを開けると、娘1号(中1)と娘2号(小4)と同じマンションの友だち(小4)が、一斉にこっちを見た。

「ママ!帰ってこれたの!?」

という娘1号の言葉が、第一声でした。

「あーーーーーーー、タクシーで帰ってぎだーー」(息切れしてる)
「電車止まってる、ってニュースで言ってたから、帰れないかと思ったよ」(←わりと冷静)
「みんな、ケガない?」
「うん、ない。大丈夫」
「よがっだーーーーーーー。……じゃあ、自転車置き場に置いて来るわ」

脱力しながら自転車に戻ったところで、同じマンションのママにあう。
タンスの上に置いてたものが落っこちたのよぉ、などと聞いて、初めて家の中を確認せねば、と思って、急いで自転車置いて、家に入る。

とりあえずダイジョブそう。と思ったが、自分の部屋のタンスの上に紙袋に入れて置いてた古いVHSのテープが散乱してた。まあ、いいや。
ガラスのコップがひとつだけ壊れたらしいが、娘1号がすでに片づけしてくれていた。
それから、娘たちの部屋の本棚から、本が落ちて散乱。
それを片づけるよりも先に、娘1号は、ガンダムのプラモデルの壊れた個所を修理しておった。おまえというやつは。

娘2号も、姉の帰宅と友だち来訪で、だいぶ落ち着いたらしく、私が帰ったときには、普通の状態。

そうこうしているウチに、ダンナ帰宅。
すぐ、実家に連絡とれ。あっちは大変みたいだぞ、と言う。
津波があったらしいと。

はい。この時点でも、なお、私は暢気でした。
地震、津波。
小さなころから、三陸大津波の3月3日には、裏山に走って逃げる訓練を受けており、地震があれば津波に警戒するという地域で育ってきましたよ。
でも、津波警報が出ても、50センチとか、せいぜい1メートルとかばかりだったから、たとえ津波があったしても、海沿いの地域が少し浸水する程度だろうと思ってました。
実家は海から数キロ離れてましたし、川が近くにありますが、堤防は決壊しないだろうと思ってました。

ダンナはこの時点で津波に飲まれる映像を見ていたらしいです。
でも、あまりにも壮絶な映像だったので、私にそれを言えず、とにかく連絡を取れとだけ言いました。
電話、携帯電話、携帯電話のメール、パソコンのメール。
ありとあらゆる手段を使えと。

言われるままに試してみますが、すべて繋がらず。
パソコンメールは送ったけれど、音沙汰なし。

とりあえず、コンビニに行って、弁当・カップラーメン、レトルト、水、など当面必要な食糧だけを買って、夕食にして、あとはテレビのニュースにくぎ付けでした。

そして私もだんだんと事の重大さがわかってくるのです。

それは、また次の備忘録で。

 

10歳の娘が熱をだした。

火曜日からインフルエンザ流行のため
学級閉鎖の憂き目をみていた娘だったのだが、
こっちは仕事があるから留守番をさせていたわけだ。

ところが水曜日の夜からどーも様子が変。

「具合悪いの?」
「……だいじょうぶ」
「調子悪いんだったら、さっさと寝なさいよ」
「……だいじょうぶだもん」

などと言っていたわけだが、木曜日の朝もぐだぐだしてる。
熱を測ったら、36.5
大丈夫、気のせいだ、元気出せ、と言い残して出勤したのだが、
やっぱり気になって昼休みに電話して、もう一回熱を測らせた。
で、37.2
びみょーーーーーーーー。
でもなぁ、と会社のみんなに頭を下げて早退。

家に帰ると、爆睡してた。
で、夕方まで爆睡してて病院行きそびれる。
起きて計測すると、38.2で頭痛あり。
まあ、順調(オイ

これはなにか?
インフルエンザなのか?
うたがいつつも、とりあえず、ちょっと前に処方されてた
カロナールをひとつ飲ませる。
みるみる熱が下がり、元気になる。

とりあえず、寝ろ。
それは薬が効いただけの一時的現象に違いない。

で、今朝は37.0
これは病院行くべきなのか、行かないべきなのか。
インフル検査をしたほうがいいのか、どうなのか。

ダンナいわく
「ひとりで留守番がイヤだから、熱出したんじゃねーの?」
「は?なに、その便利機能」
「だって、あいつスキー教室で転んで雪山に萎えたとたん、
 熱出してお迎えこさせたじゃん」
「えーー」
「うさぎと一緒だな」
「……さみしいと死んじゃうってヤツ?」
「そう。ひとり留守番さみしいから発熱」
「…………」

すまんな、娘。
母は毒舌パパの言葉を完全否定できんかったよ。

まあ、とりあえず、うさぎ熱かどうかは不明だが、
今日は一日、一緒にお休みだ。

ひさしぶりに土曜日の渋谷に行った。

目的はチャコットへ行って、娘のバレエグッズを買うこと。
レオタード、トゥシューズのゴム、タイツ。
あっという間に去年買ったレオタードがきつくなった、と言われたから。
まったくどんどん大きくなって、喜ばしいことではあるが、
どんどんレオタードやトゥシューズを買い替えることになるのは
たいへん厳しいことではある。
ま、しゃーない。
がんばって、働きますけども。

で、土曜日の渋谷。
人がいっぱい。
そのむかし、人ごみが大好きで、
人ごみの中をするする歩いて、目的地にいく自分が好きだった。
基本的に田舎モノなのだが、都会のトウキョウでも、
こんなにきちんと歩けてます、というコトが好きだった。
……ような気がする。

気がするのだが、今日はものすごく疲れた。
なんで、こんなに人がいるのだ、と理不尽にも思ったりする
まもなくアラフォー。

チャコットの買い物を終えると、すでに帰りたい自分をしり目に
中学生はもっと歩きたい、ほら、ウィンドーショッピング、
などと浮足立っている。
で、中学生を連れてまるきゅう……109などに行ってみるわけだが、
そこには日本一のギャルのみなさんがいらっさるわけだ。

中学生の娘もそこそこがんばってオサレしているのだが、
日本一のギャルのみなさまに目を丸くしている。
「……すごい」
などと、つぶやいて。
自分の娘が、ものすごーく素朴な娘に見えて実にほほえましい。
「うん。なかなか、面白かった」
と、ギャルのみなさまを見物した娘の感想であった。

渋谷駅から自宅付近までバスで帰ったのだが、
窓を開けているものの、車内の空気が籠って熱くて
そもそも人ごみに酔っているのに加えて車酔い。

ぐったり疲れて、家に帰って、しばし意識を失う。ベッドのうえで。
娘は元気よくバレエのレッスンに行ったらしい。
あー、これが年の差ってヤツか。

ますます白雪姫の継母の気持ちがわかるっちゅうねん。
 

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