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日々の繰り言を綴る日記

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2011年3月12日(土)

昨夜からニュースとネットで情報をむさぼるように見てた。

東北地方太平洋沿岸に巨大津波。

どの時点かは今となってはあやふやだけど、
少なくとも12日の朝の時点で、巨大津波が襲ったことはわかってた。

最初に見た映像は、石巻か気仙か、
とにかく、津波が去った後の町並み。
道は泥だらけ。瓦礫と、大きな根っこを見せた倒木。
大槌とは離れた町の映像だった。
ここは大変だったんだね。
最初はそう思った。

でも、だんだんとわかってくる。
たとえひどい状況であれ、テレビカメラが入れるところはまだマシだから。
テレビカメラの入れない町こそ、さらに酷いことになっている可能性がある。

大槌町は、県や国が町役場と連絡すらとれないでいるらしいと知る。

私自身も実家とは連絡とれず。姉とも連絡とれず。
回線が混雑いているからなのか、それとも全く別な理由なのか。

確信的な情報を得られなく、悶々としたまま朝を迎え、
そして、ニュースを見続けてた。
ニュースは津波で多数の死者が出ていることを伝えている。

とんでもないことになっているのかもしれない。
とんでもないこと。
それを具体的に想像するのは怖かった。

もやもやとした重い塊が胸にある。

大津波は平日の午後。
会社はとっくに退職し、地域の自治会長をしている父は家にいただろうか。
母も一緒だっただろうか。
それとも、小学生の姪を迎えに学校にいっただろうか。
それとも、ふたりともより海に近い町方に用事で行っていただろうか。
姉夫婦は釜石市の会社に行ってたのだろうか。
大槌に帰れてたのだろうか。

午前何時ごろだっただろう。
とつぜん、家の電話が鳴った。
飛びつくように出る。

「あ、咲蘭(ほんとは本名)?」

姉の声だった。
切迫するでもなく、とにかく、いつもの姉の声。

「おねぇちゃぁぁあああんっ!生きてたぁぁぁあああ!!!!」

それが私の第一声。

「うん。いまねNTTから電話借りてかけてんの」
「うん!」

たぶん、衛星電話を借りていたのではないと思われる。

「会社までは津波が来なかったから、私もダンナも無事」
「よかったぁぁああ」
「でね、お父さんからあんたのとこに電話がきたら、私らも無事だって伝えてちょーだい」
「わかった!必ず伝える!お父さんたちには会ってないの?」
「だって、会社に来てて、地震と津波で家に帰れてないからさー」
「そうか」
「じゃあね」
「うん!気をつけてね!必ず伝えるから!」

なんとも間抜けな会話のような気もするが、
とにかく姉の声を聞いた私の手は震えてた。
ぶるぶる震えて、しばらくその場から動けなかった。
それから、見守ってたダンナと娘たちに、姉と義兄が無事なことを伝える。

これはあとから知ったことだけど、姉たちの会社は海から
離れた場所にあるため津波は到達せず、沿岸に津波が来たことは知りつつも、
まだ、それほどの非常事態を把握していなかったらしい。
逆に私の方がテレビで情報を得ている分、悲痛な声だったのかもしれない。

その後、姉から携帯にメールが届いた。
海側は津波の被害で通れないから、今から遠野方面から
山越えして大槌に帰る、という内容。
姉たちも大槌に娘を置いているけど、連絡がとれず
ずいぶん心配はしていただろうと思う。
そのメールを最後に、姉たちとも数日間連絡が途絶えた。

これが12日(土)の午前中。
私にできることと言えば、テレビ、ネットから大槌の情報や
避難者名簿に家族の名前が無いか探すことぐらいだった。
ダンナと私とそれぞれのパソコンでひたすら検索しまくった。

ヘリコプターからの映像で大槌の町が映ったのは、
12日の何時頃だっただろう。
リアス式海岸特有の海までせり出した山々。
その合間の平地に町。
その山から幾つもの煙があがり、町は瓦礫と泥だけになっていた。
津波が町を押し流し、プロパンガスが燃え、ガソリンスタンドに引火し、
流された家々を焼き、山に火が移り、町中が燃えたらしい。

夜になっても、よく眠れない。
家族は寝かせて、自分ひとりパソコンにかじりつく。

13日(日)午後。
初めて、テレビカメラが大槌の町に入った。
日テレ(テレビ岩手)かFNN(めんこいテレビ)だったと思う。
でもね。
一瞬どこの映像かわからないの。
知ってる見慣れた町なのに、あるはずの建物が一切無くて、
瓦礫の山だけで、どこだかすぐにはわからない。

「……あれ、もしかして、これ古廟橋じゃない?」

テレビに向かって呟いた。
映し出された、ぎりぎり津波の被害を受けなかった橋。
手前まで燃えたがれきや流された家があるけれど、
その向こうにはショッピングセンターの看板が見える。

「………………うっそぉぉぉ……」

言葉が無かった。
2歳から高校を卒業するまで住んでいた町が、
いつでも帰省すれば、変わらぬ姿でいてくれた町が、
まるで空襲で爆撃でもされてしまったかのような姿になっていた。
テレビの向こうに映し出された変わり果てた町の風景。
ただの瓦礫ではなく、燃えて錆びた鉄柱。
すすけた鉄筋コンクリートの建物。(←よく知ってるおじさんの家だ)
つぶれた家。(←姉の同級生が住んでいた家)
黒こげの道の向こうには燃えてあとかたも無い父方の本家。
きれいな流れだった川に無残な姿の車。
たぶん一生忘れられない。
現実感が無くて、全身から力が抜けて、涙がだーだーと流れた。

FNNの現地レポーターが、橋から茫然と町を眺めている
二人のおばさんに声を掛けた。
家はどうだったのですか、という問いに、私の実家が流されてしまって、と
そのおばさんが答えた。

「あっ!ぁああっ!!○さんだっ!」

誰あろう、父の姉、私の伯母さんだった。
わりと小奇麗な格好に、毛糸の帽子までかぶっている。
汚れた風でもなく、今から町に買い物にでも出かけそうな雰囲気で。
伯母さんが生きてる。助かってる。
しかも、こんな小奇麗な格好で。
このことがどれだけ私を励ましてくれたかわからない。
伯母さんの家の位置から考えて、伯母さんちに津波が到達してなければ、
実家だって津波が来ているわけがない!と思った。

あとからわかったことだけど。
伯母さんちも、私の実家も、津波は到達してた。
ただ家を押し流すほどではなく、1階の1m以上の床上浸水。
大規模半壊というやつだ。

とにかく、伯母さんの姿に勇気をもらって、
再びネット情報をあさりまくった。

父と母と姪の安否。
大槌に入っただろう姉たちの動向。
大槌にたくさん住んでいる父方の親戚いとこたちの安否。
陸前高田に住んでいる母方の親戚の安否。

13日(日)夜。
地震と津波から2日経過していたけれど、
まだ分からないことだらけだった。

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